世界の隅々まで見てみよう!個性派の陸旅倶楽部

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March 2015

リー・クアンユー氏死去 シンガポール建国の父の足跡をたどる


ではなぜ、リー・クアンユー氏は頑ななまでにマラヤ連邦に留まろうとしたのでしょうか?

シンガポールは面積僅か600㎢(日本の淡路島とほぼ同じ面積)の島国に独立当初は200万人の人口、周辺をマレーシア、インドネシアとイスラム教国家に囲まれた国です。国土が極端に小さいということは国防の観点から見ても不安定な状況に置かれることを意味し、人口の大多数を華人系住民が占めるという現実は、非イスラム教国家の小国として有事の際であるなしに関わらず、孤立化の危険性をはらみ、大きな不安要素となりかねません。
加えて、基本的に一切のエネルギーや食糧のみならず水さえも自給できないという生産基盤も欠如していました。

このような状態の中でシンガポールが国として独立したらどうなるのか、その困難さを誰よりも認識していたからこそ、リー・クワンユー氏は何としてでもマラヤ連邦内に留まり、その中で生きる道を模索しようとしたのでした。
それも叶わず、半ば追放という形で独立せざるを得なくなったリー・クアンユー氏は、19658月9日の独立宣言の途中、自制心を失って涙したと言われています。それは、シンガポールのリーダーとして自身の双肩にのしかかるあまりにも大きすぎるプレッシャーと、シンガポールの未来に対する底知れぬ不安の表れだったのかもしれません。「Strong Man」とすら呼ばれたリー・クアンユー氏にとってすら、あまりにも過酷な現実だったのです。

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シンガポールの国家建設は、文字通り「ゼロ」からのスタートであり、リー・クアンユー氏は様々な政策を展開してシンガポールを発展への道へと導いていきました。
それらは時に国内外から、特に人権の側面から批判にさらされることもありましたが、「アジアにはアジア特有の価値観がある」との「アジア的価値」を全面に押し出し、開発独裁と呼ばれる強権的な政治体制を堅持していきました。

リー・クアンユー氏の功績は枚挙にいとまがありません。それらについては専門書に譲りますが、ここではシンガポールが置かれた状況が最もよく表れている民族政策について簡単にご紹介したいと思います。

シンガポールには元来、移民の同化対象となる優位な文化が存在していなかったため、リー・クアンユー氏率いるシンガポール政府は、民族集団に依拠する「●●人」ではなく、民族を超越した「シンガポール人」というアイデンティティーを創り上げようとしました。同時に、多民族が共存するシンガポールにあって、民族間の対立は国を滅ぼしかねないとの懸念から、様々な法律を制定し、多民族が融和する国家創設を目指したのでした。
これに付随して、国際社会で有益な英語を公用語とし、その他、それぞれの国民の母語である華語(中国標準語)、タミル語も同様に公用語としました。なお、シンガポールの国語はマレー語です。これは、土着の民族であったマレー人に対する配慮だとも、あるいは、マラヤ連邦との分裂は一時的なものであり、いずれは再び連邦に戻るつもりであったため、とも言われています。

Singapore_Sign

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今年、シンガポールは建国50周年を迎えます。
1965年に不本意ながら独立した当時、誰が現在のような繁栄を極めるシンガポールの姿を想像したでしょうか?それは、リー・クアンユー氏ご本人にしてもそうだったのではないでしょうか。
様々な批判にさらされ、そして、様々な問題を抱えていたのも事実ですが、わずか50年の間にこれだけの国家を建設してきたことも紛れもない事実であり、これこそがリー・クアンユー氏の総合的なそして最大の功績だと言えるはずです。

Singapore_Land_Scape

50周年の節目を目前にこの世を去らなければならなかったことは無念だったかもしれません。しかし、自らの役割を全うし、その結果に納得ができたからこそ、シンガポール人として愛してやまないシンガポールを後世に託し、旅だっていったようにも思います。

ご冥福をお祈りします。

(おわり)

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【訃報】リー・クアンユー氏死去 シンガポール「建国の父」逝く


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シンガポールの初代首相で、シンガポール「建国の父」とも称されるリー・クアンユー氏が3月23日午前3時18分(日本時間同4時18分)、同国内の病院でお亡くなりになりました。91歳でした。

【シンガポール=吉田渉】シンガポール首相府は23日、同国のリー・クアンユー元首相が同日午前3時18分、同国内の病院で死去したと発表した。91歳だった。同氏は2月上旬に肺炎で入院し、治療を受けていた。1965年の独立から25年にわたり首相を務め、強力な指導力で同国を世界有数の富裕国に引き上げた。現首相のリー・シェンロン氏は長男。

 リー氏の訃報は同日未明に首相府が声明を通じて発表した。葬儀などの詳細は追って発表するとしている。トニー・タン大統領は自身のフェイスブックで「リー氏の先見性と発展への絶え間ない追求が無ければ、現在のシンガポールは存在しなかった」と述べた。(日本経済新聞より抜粋掲載)

早朝にもたらされたこの訃報に接し、また一つの時代の終焉を感じずにはいられません。
追悼の意味も込めて、この機会にリー・クアンユー氏及びシンガポールの歴史や功績を2回にわたり、ここで簡単に振り返ってみたいと思います。

自叙伝によると、客家系華人の4世にあたるといいます。曾祖父の時代に清の時代の広東省を出発し、当時イギリスの海峡植民地だったシンガポールに移住してきました。

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第二次世界大戦後イギリスに留学し、帰国後は弁護士として活動していましたが、1954年11月21日、同志たちとともに人民行動党(People's Action Party; 略称PAP)を創設、同党は後述のシンガポール独立以降は現在に至るまで一貫して与党の座を維持しています。

1959年、国防と外交を除く国内問題に対する自治権を得て、リー・クアンユー氏はシンガポールの初代首相に就任、以降1990年に首相の座を後任のゴー・チョクトン氏に明け渡すまで実に31年間にわたって首相を務めることとなります。1961年にマラヤ連邦首相のラーマン氏がシンガポール、サバ州、サラワク州を含む連邦形成を提案すると、これをシンガポールのイギリスからの独立、将来へ向けての繁栄の好機と踏んだリー・クアンユー氏は実現へ向けての活動を展開。1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったのでした。

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リー・クアンユー氏の悲願であったマレーシアとの連邦関係も、残念ながら長くは続きません。
マレーシアはマレー人が大多数を占め、マレー人などの土着の住民を優遇する「ブミプトラ政策」と呼ばれる政策をもつ国でした。一方、シンガポールは華人系住民が大多数を占めており、そのシンガポールをマレーシアに包含すること、そして、その代表である人民行動党がマレーシアにおいて政治活動を行うことにマレーシア政府は大きな懸念を抱くようになります。

1964年7月21日にはマレー系住民と華人系住民の衝突が発生、多数の死傷者を出す惨事となりました。同年9月にはさらに大きな暴動が勃発、これにより国民生活に大きな影響が出るに至りました。
これらを受け、ラーマン首相は「中央政府に忠誠を示さなかった州政府とは、すべての関係を断ち切る」との方針を打ち出し、シンガポールを連邦から追放することを決定しました。リー・クアンユー氏は何としてでも連邦に留まるべく、あらゆる打開策を熟考し続けたものの失敗に終わり、1965年8月7日、リー・クアンユー氏はマラヤ連邦からの分離に合意する文書に署名したのでした。
そして、2日後の同年8月9日、シンガポール共和国の独立がリー・クアンユー氏により、宣言されたのでした。

これは、シンガポールの独立という体裁ではあったものの、実際にはマレーシア連邦からシンガポールが追放されたに等しく、苦渋の選択により、独立せざるを得なかったという側面をももつものでした。

(つづく)

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横浜にアフリカがやってくる!アフリカン・フェスティバルよこはま2015



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4月3日(金)~5日(日)の3日間にわたり、横浜みなとみらい地区にある赤レンガ倉庫を舞台に、『第8回アフリカン・フェスティバルよこはま2015』が開催されます。

各国の大使館をはじめ、食べ物や雑貨などの店舗が多数出展し、各国の最新情報を入手したり、普段はなかなかお目にかかれない各国の物産品を購入できるだけでなく、アフリカ音楽やダンスのライブ、ファッションショー、写真展、ゲームコーナー、民族楽器やダンスのワークショップなど、子供から大人まで存分に楽しめる内容が盛りだくさんです。

入場は無料ですので、お花見のお出掛けのついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

■日時:2015年4月3日(金)~4月5日(日)
     11:00~19:00(最終日は17:00まで)
■場所:横浜赤レンガ倉庫1号館
■入場料:無料
■公式ホームページ:http://africanfestyokohama.com/

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【ニュース】チュニジアの首都チュニスで武装集団が観光客を襲撃



昨晩から軒並みニュース番組を賑わせているので既にご存知の方も多くいらっしゃると思いますが、北アフリカのチュニジアの首都チュニスで、武装集団が観光客を襲撃するという痛ましいテロが発生しました。現場は、チュニス市内きっての観光地でもある「国立バルドー博物館」で、日本人にも死傷者が出てしまいました。国立バルドー博物館は、国内各地のローマ遺跡から出土した素晴らしいモザイク画の展示で有名で、ほとんどの観光客が訪れると言っても過言ではない場所です。

BARDO_MUSEUM_01

以下、東京海上日動リスクコンサルティング株式会社より配信された情報の抜粋です。
チュニジアの首都チュニス(Tunis)市内にある国立バルドー博物館(The
National Bardo Museum)で2015年3月18日、武装した男2人が銃を乱射し、少
なくとも外国人観光客20人を含む22人が死亡、42人が負傷した。警察は、犯人
2人を射殺し、共犯者の行方を追っている。

同国のシド(Habib Essid)首相が、犠牲者の中に日本人が5人いたと発表し
た。日本外務省は情報の確認を急いでおり、午前9時現在、邦人3人の死亡、3
人の負傷を確認している。
チュニジアは、イスラム国家ではありますが、その中でも比較的穏健な「ソフト・イスラム」に属する国で、国内のイスラムの戒律も比較的緩やかで、ゆえに、数多く残るローマ遺跡などの観光素材の充実も相まって、観光立国でもあります。

TUNIS

そんな穏健なチュニジアに2010年から2011年にかけて歴史の転換期が訪れました。国の花であるジャスミンから名をとって「ジャスミン革命」と呼ばれる革命です。一青年の焼身自殺に端を発した反政府デモが全土に拡大し、結果、23年間続いた政権を崩壊させました。そして、このジャスミン革命は他のイスラム諸国へと飛び火し、いわゆる「アラブの春」の発端となったのでした。

今回の事件が一刻も早く収束し、再び観光客が安心してチュニジアを訪れることができるようになることを切望すると共に、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りいたします。

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日本だけじゃない! 桜が見られる世界の都市をご紹介。


3月も中旬、暖かく感じられる日も徐々に増えて、いよいよ春の訪れを肌で感じられるようになってきた今日この頃です。
日本の春と言えば、なんといっても桜!
最新の開花予想をチェックすると、来週23日頃から咲き始め、日本列島を桜前線が北上していくようです。

日本の風物詩とも言える桜ですが、日本以外にも美しい桜を楽しめるスポットが世界中に存在します。
今日は、そのいくつかをご紹介したいと思います。

①ポトマック河畔の桜並木(ワシントンDC/アメリカ合衆国)

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リンカーン記念館の裏手を流れるポトマック川の川岸は、毎年3月下旬から4月上旬にかけて一面が桜色に染まります。ここの桜並木はワシントンDCはもちろん、全米でも有名なばかりか、世界的にも有名なスポットとなっています。
この桜、実は1912年に荒川の土手から持って来られたもので、日米友好の証でもあるのです。
また、毎年この時期には、「全米桜祭り」が大々的に開催されます。

②東湖桜花円(武漢/中国)

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前述のポトマック河畔、日本の弘前公園、そしてこの中国は武漢の東湖桜花園が「世界三大桜の名所」に数えられているのだとか。日本軍の武漢占領時代に桜が植えられ、その後も植樹が進んで、現在のような名所になったそうです。中国国内でも、遼寧省大連市にある龍王塘桜花園と合せて二大桜の名所とされています。

③慶州/韓国

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韓国最大の歴史の街として知られる新羅時代の古都・慶州。
「屋根のない博物館」と呼ばれるほど、古墳や遺跡が数多く残るこの慶州では、観光客を迎え入れるために街を整備した際に、多くの桜が植えられ、いつの頃からか、「慶州=桜」というイメージが韓国内外で出来上がっていきました。現在では、約2万5000本の桜の木が街を覆っています。
毎年桜の季節には、「慶州桜マラソン&ウォーク大会」が開催されます。

まだまだ世界中には「桜の名所」と言われる場所がたくさんあります。
事前に調べて訪れるもよし、あるいは、偶然そんな名所に出逢うこともあるかもしれません。
また、桜以外にも世界中には美しい花の名所も数多く存在します。いずれ、そんな名所もご紹介していければと思っています。

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