ではなぜ、リー・クアンユー氏は頑ななまでにマラヤ連邦に留まろうとしたのでしょうか?

シンガポールは面積僅か600㎢(日本の淡路島とほぼ同じ面積)の島国に独立当初は200万人の人口、周辺をマレーシア、インドネシアとイスラム教国家に囲まれた国です。国土が極端に小さいということは国防の観点から見ても不安定な状況に置かれることを意味し、人口の大多数を華人系住民が占めるという現実は、非イスラム教国家の小国として有事の際であるなしに関わらず、孤立化の危険性をはらみ、大きな不安要素となりかねません。
加えて、基本的に一切のエネルギーや食糧のみならず水さえも自給できないという生産基盤も欠如していました。

このような状態の中でシンガポールが国として独立したらどうなるのか、その困難さを誰よりも認識していたからこそ、リー・クワンユー氏は何としてでもマラヤ連邦内に留まり、その中で生きる道を模索しようとしたのでした。
それも叶わず、半ば追放という形で独立せざるを得なくなったリー・クアンユー氏は、19658月9日の独立宣言の途中、自制心を失って涙したと言われています。それは、シンガポールのリーダーとして自身の双肩にのしかかるあまりにも大きすぎるプレッシャーと、シンガポールの未来に対する底知れぬ不安の表れだったのかもしれません。「Strong Man」とすら呼ばれたリー・クアンユー氏にとってすら、あまりにも過酷な現実だったのです。

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シンガポールの国家建設は、文字通り「ゼロ」からのスタートであり、リー・クアンユー氏は様々な政策を展開してシンガポールを発展への道へと導いていきました。
それらは時に国内外から、特に人権の側面から批判にさらされることもありましたが、「アジアにはアジア特有の価値観がある」との「アジア的価値」を全面に押し出し、開発独裁と呼ばれる強権的な政治体制を堅持していきました。

リー・クアンユー氏の功績は枚挙にいとまがありません。それらについては専門書に譲りますが、ここではシンガポールが置かれた状況が最もよく表れている民族政策について簡単にご紹介したいと思います。

シンガポールには元来、移民の同化対象となる優位な文化が存在していなかったため、リー・クアンユー氏率いるシンガポール政府は、民族集団に依拠する「●●人」ではなく、民族を超越した「シンガポール人」というアイデンティティーを創り上げようとしました。同時に、多民族が共存するシンガポールにあって、民族間の対立は国を滅ぼしかねないとの懸念から、様々な法律を制定し、多民族が融和する国家創設を目指したのでした。
これに付随して、国際社会で有益な英語を公用語とし、その他、それぞれの国民の母語である華語(中国標準語)、タミル語も同様に公用語としました。なお、シンガポールの国語はマレー語です。これは、土着の民族であったマレー人に対する配慮だとも、あるいは、マラヤ連邦との分裂は一時的なものであり、いずれは再び連邦に戻るつもりであったため、とも言われています。

Singapore_Sign

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今年、シンガポールは建国50周年を迎えます。
1965年に不本意ながら独立した当時、誰が現在のような繁栄を極めるシンガポールの姿を想像したでしょうか?それは、リー・クアンユー氏ご本人にしてもそうだったのではないでしょうか。
様々な批判にさらされ、そして、様々な問題を抱えていたのも事実ですが、わずか50年の間にこれだけの国家を建設してきたことも紛れもない事実であり、これこそがリー・クアンユー氏の総合的なそして最大の功績だと言えるはずです。

Singapore_Land_Scape

50周年の節目を目前にこの世を去らなければならなかったことは無念だったかもしれません。しかし、自らの役割を全うし、その結果に納得ができたからこそ、シンガポール人として愛してやまないシンガポールを後世に託し、旅だっていったようにも思います。

ご冥福をお祈りします。

(おわり)

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