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シンガポールの初代首相で、シンガポール「建国の父」とも称されるリー・クアンユー氏が3月23日午前3時18分(日本時間同4時18分)、同国内の病院でお亡くなりになりました。91歳でした。

【シンガポール=吉田渉】シンガポール首相府は23日、同国のリー・クアンユー元首相が同日午前3時18分、同国内の病院で死去したと発表した。91歳だった。同氏は2月上旬に肺炎で入院し、治療を受けていた。1965年の独立から25年にわたり首相を務め、強力な指導力で同国を世界有数の富裕国に引き上げた。現首相のリー・シェンロン氏は長男。

 リー氏の訃報は同日未明に首相府が声明を通じて発表した。葬儀などの詳細は追って発表するとしている。トニー・タン大統領は自身のフェイスブックで「リー氏の先見性と発展への絶え間ない追求が無ければ、現在のシンガポールは存在しなかった」と述べた。(日本経済新聞より抜粋掲載)

早朝にもたらされたこの訃報に接し、また一つの時代の終焉を感じずにはいられません。
追悼の意味も込めて、この機会にリー・クアンユー氏及びシンガポールの歴史や功績を2回にわたり、ここで簡単に振り返ってみたいと思います。

自叙伝によると、客家系華人の4世にあたるといいます。曾祖父の時代に清の時代の広東省を出発し、当時イギリスの海峡植民地だったシンガポールに移住してきました。

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第二次世界大戦後イギリスに留学し、帰国後は弁護士として活動していましたが、1954年11月21日、同志たちとともに人民行動党(People's Action Party; 略称PAP)を創設、同党は後述のシンガポール独立以降は現在に至るまで一貫して与党の座を維持しています。

1959年、国防と外交を除く国内問題に対する自治権を得て、リー・クアンユー氏はシンガポールの初代首相に就任、以降1990年に首相の座を後任のゴー・チョクトン氏に明け渡すまで実に31年間にわたって首相を務めることとなります。1961年にマラヤ連邦首相のラーマン氏がシンガポール、サバ州、サラワク州を含む連邦形成を提案すると、これをシンガポールのイギリスからの独立、将来へ向けての繁栄の好機と踏んだリー・クアンユー氏は実現へ向けての活動を展開。1963年9月16日、シンガポールは晴れてマレーシアの一部となったのでした。

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リー・クアンユー氏の悲願であったマレーシアとの連邦関係も、残念ながら長くは続きません。
マレーシアはマレー人が大多数を占め、マレー人などの土着の住民を優遇する「ブミプトラ政策」と呼ばれる政策をもつ国でした。一方、シンガポールは華人系住民が大多数を占めており、そのシンガポールをマレーシアに包含すること、そして、その代表である人民行動党がマレーシアにおいて政治活動を行うことにマレーシア政府は大きな懸念を抱くようになります。

1964年7月21日にはマレー系住民と華人系住民の衝突が発生、多数の死傷者を出す惨事となりました。同年9月にはさらに大きな暴動が勃発、これにより国民生活に大きな影響が出るに至りました。
これらを受け、ラーマン首相は「中央政府に忠誠を示さなかった州政府とは、すべての関係を断ち切る」との方針を打ち出し、シンガポールを連邦から追放することを決定しました。リー・クアンユー氏は何としてでも連邦に留まるべく、あらゆる打開策を熟考し続けたものの失敗に終わり、1965年8月7日、リー・クアンユー氏はマラヤ連邦からの分離に合意する文書に署名したのでした。
そして、2日後の同年8月9日、シンガポール共和国の独立がリー・クアンユー氏により、宣言されたのでした。

これは、シンガポールの独立という体裁ではあったものの、実際にはマレーシア連邦からシンガポールが追放されたに等しく、苦渋の選択により、独立せざるを得なかったという側面をももつものでした。

(つづく)

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